嘘だろッ!24 嘘だろッ目次


 「離れろっ、汚いっ、こら、久野っ。チキショーッ、コノヤロッ」

 課長が引き離そうと、俺の頭を鷲掴みにする。

「あぁ、もう手遅れだ……俺のスーツが……」

 俺の顔からスーツに架かるキラリと光るネバネバを確認した課長。
 もう好きなだけ泣いてろ、と俺の頭から手を退けた。

「帰れないってことは、吉田とお前のとこの大家が絡んでいるってことか」
 『…なんとなく、想像は付くがな…』
 
 小声で呟いた言葉を泣くのに忙しい俺は聞き逃していた。

「久野、どうするんだ? 帰れないとなると、お前、もしかしたら、一課に回されるかもしれないぞ?」

 この意味が、まだ俺には分かっていなかった。どうして、帰れないことと、一課が関連しているのかを深く考えている前に、『帰れない・どうしよう・一課はイヤだ』だけが、頭を巡った。

「…ううっ、課長…住むところが…、ホテルも無理です……もう、金もありません……まだ家賃も払ってません……」
 
 だからといって、課長に金の無心をするつもりはなかった。
 火事の見舞金は別として、銀行に限らず、本来俺は借金が嫌いなのだ。

「しょうがないな。しばらく、俺のところに来るか? お前の給料と考えると、次の部屋を借りるのに必要な金額を貯めるには最低でも三ヶ月は掛かるだろう。三ヶ月だけ、置いてやる」
「…本当っ、ですか……、良い…ですかっ?」
「そのかわり、ビシッと売り上げの数字を上げること。それと家事全般全てお前だから。家賃は今のところと同じでいい」
 
 希望の光が見えた気がした。絶望の中に微かな希望の光。取り敢えず、住むところは確保だ。 

「…ありがとうございます……課長ぅうううう、大好きですっ…」
 
 泣きっ面で課長を見上げ、礼を言った。目の錯覚か、課長が凄く良い人に見えた。

「気持ち悪いこと言うな。いいか、泣き落としを使うときは、もっと綺麗に泣け。涙だけスーッと、女優みたいに流せ。もっとも、男の涙は、泣き落としにも使えないが。あ、二丁目か、オバハン連中なら使えるかもしれんな。もちろん、お前限定で。まあ、練習しとけ。職を失った時には有効かも知れん」

 …やはり、目の錯覚だった。

「さ、行くぞ!」

 行くって……どこへ?

「不思議そうにアホな面するな。お前のところの大家と話し付けて、荷物を運ぶんだ。俺は明日でもいいけど、久野は今日も帰りたくないんだろ? だったら早い方がいい。それに、お前のせいで俺も今日は仕事にならん。こんなスーツで仕事する気にはなれん。ったく、クリーニング代は、あいつに請求してやる」

 あいつって、誰だ…? 俺じゃないってことは確かだよな? 良かった……。

「しかし、その姿では帰れないな。俺はコートがあるが、お前ないし。ちょっと待ってろ」

 鼻水と涙は課長のスーツだけでなく、一部は俺の上着も汚していた。
 課長が会議室を出て行こうとした。ドタドタッと凄い音がする。

「やはり、そんなことかと思った。お前等、立ち聞きなんてみっともないことするな。おい遠山、コートとマフラーを貸せ」

 二課の連中が会議室のドアの前に転がっていた。
 その中の男性社員のコートとマフラーを、課長が強引に借りている。
 俺、帰り寒いじゃないですか…という情けない声が聞こえてきた。
 その後、『ひっ、直ぐに持ってきます』という声が聞こえてきたので、多分課長の女殺し、別名、部下殺しの目で睨まれたのであろう。
 課長がいない間、俺は課長が貸してくれたハンカチで顔の水分を拭っていた。
 もう、ベトベトのハンカチはポケットに収納することすら躊躇われ、返さなくていいと言っていた課長の言葉を信じ、迷うことなく会議室のゴミ箱へ放り投げた。

「ほら、帰るぞ」

 帰り支度を終えた課長がコートとマフラーを俺に投げた。
 スマン、遠山、と二課で唯一の後輩に心の中で詫びを入れ、俺はコートを羽織り、マフラーを巻いた。コートの裏地に俺の鼻水が付いたら、クリーニング代は俺持ちだろうか、それとも、強引に借りた課長だろうか、とみみっちいことを考えながら、鞄にファンデーションが付着したネクタイを仕舞い込んだ。

「課長っ、待って下さい」

 サッサと歩き出した課長の跡を慌てて追った。他の連中の視線が痛かったが、「スミマセン、お先に失礼します」と頭を下げながら、前方を行く課長を追う。
 特に遠山の視線を強く感じたが、気付かないふりをした。
 同僚にみっともない姿を見られたことよりも、今の俺には天道寺の部屋から出て行くことの方が重要で、羞恥を感じる余裕もなく、『早く決着を付けたい』それしか頭になかった。


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