嘘だろッ!21 嘘だろッ目次

「課長、お早うございます」
 
 金曜日、狡休み(?)明けの出社にどうも気が退け、エントランスを溜息交じりに入っていくと、ホールでバッタリ課長と出会
(でくわ)した。

「久野か、お早う。吉田と一緒じゃないのか?」
「一人です。課長、休暇ありがとうございました」
「お前の場合、休暇も仕事だから、気にするな。それよりも……ちょっと来いっ」
 
 課長に腕を取られ、引っ張られる。
 連れて行かれたのはエントランスホール脇にある、一般客も使用するトイレの個室。

「課長…?」
 
 狭い空間に課長と二人。課長の手が俺の首に伸びる。

「ヒィッ」
 
 ヒヤッとした課長の冷たい手の感触に、身体が勝手に危険を察して、後ろに仰け反ってしまった。

「バカ、変な声出すな。首にあるその変なモノ、隠せ。キスマークだろ?」
「課長ッ…違います…あの…、虫刺されです」
「この二月にか? お前の新居にはダニがいるのか? なるほど、大きくて綺麗なダニがいるんだろうな」
 
 ギロッと睨まれた。

「…ハイ」
 
 天道寺の噛み跡は増え、左右両方の首の付け根にあった。 
 襟で隠れていると思ったが、身長の高い課長が上から俺を見下ろすと、見えるのだろう。

「しょうがないヤツだ……えっと、これこれ、塗ってやるからネクタイ緩めろ」
 
 課長が鞄の中から直径五センチ位の丸いケースを取り出した。
 便座の蓋の上に鞄を置き、ケースの蓋を開け、中身を指で掬(すく)うと俺の顔に向けた。

「課長、それは?」
「ファンデーションだ。塗れば、隠せるだろ」 
 
 そんなものを持ち歩いている理由はなんだ? 
 実は女装趣味があるとか? 

「課長、化粧が趣味なんですか?」
「そんなわけないだろ。だからお前は顔だけだって言われるんだ」
 
 疑問に思うのが普通だろう? 
 男の通勤鞄にファンデーションが入っているのはおかしいだろう? リップクリームならまだ分かるけど。

「不服そうな顔しているな? お前自分の所属している課がどこか本当に分かっているのか?」
「営業第二課です。そこまでバカじゃありません」
「そうだ、その通りだ。通称イケメン課俗称ホスト課だ。ホスト擬(もど)きの営業マンのくせに、女から痕付けられてくるアホな輩
(やから)が何人いると思っているんだ? お前だけじゃないんだよ。ああ、お前はダニだったな。本当の虫刺されでもキスマークに見えるものもあるしな。お前等がいい加減だから、いつでもフォロー出来るよう、俺がコレを持ち歩いているんだ」
 
 それなら、課長の机の引き出しでもいいんじゃないか?と思ったが、それは口に出さなかった。
 同僚が見える場所に、キスマーク付けているのを目にしたことはない。

「サッサとネクタイ緩めろ。シャツのボタンも外す」
 
 てれてれするな、と目で脅され、言われた通りに首元を緩めた。

「…今日、展示会の予定はないのに…」
「何か、言ったか?」
「いえ…、別に……ワッ」」
 
 課長の指の冷たさに、思わず声が洩れた。

「…課長…ひっ、まだですか?」
「しょうがないだろ、数が多いし、重ね塗りしないと隠せない。お前、首筋が弱いのか? 変な声出すな」
 
 出すなと言われても、ファンデーションを伸ばす課長の指の力加減がソフト過ぎ、擽
(くすぐ)ったいのだ。

「ヒッ…ウッ…課長!」
「もう少しだから、我慢しろ。こらえ性のないヤツだ」
「もう…我慢できませんっ、早くして下さい」
「じゃあ、我慢するな」
 
 言っていることが滅茶苦茶だ。
 擽ったいのを我慢するなって、どういうことか教えて欲しい。
 こんな狭い所で転げ回って笑えとでも言うつもりなんだろうか?

「…ヒィイイ、課長、もっと強くっ! 強くして下さい」
 
 課長の指の力が弱いから、擽ったいのだ。

「…しょうがないヤツだ。コレで、いいか?」
「…イイです」
 
 塗り始めてから、もの凄く長く感じるが実際は一、二分だろう。

「よし、終わりだ」
「…はあ〜、良かった…」
 
 全く世話を焼かせるヤツだと課長がブツブツ言いながら、指に残ったファンデーションをトイレットペーパーで拭きとる。
 鞄にファンデーションのケースをしまうと汚れたペーパーを流した。

「久野、仕事だ。行くぞ。ネクタイ正せ」
「あ、はいっ」
 
 課長が、個室の扉を開けた。
 個室を出ようとしていた課長の足が止まる。

「…吉田? どうした、赤い顔して。下痢か?」
 
 吉田がいるのか? 
 俺は滅多に使用しないけど、エントランスホールのトイレは人気があるらしい。  

「よ、お早う」
 
 課長の後ろから顔を出した。
 今までにお目にしたことがないくらい、真っ赤な顔の吉田が立っていた。

「よ、じゃないだろっ! 何やってるんだよ、お前…」
 
 真っ赤な顔が今度は急速に青くなっていく。

「吉田、トイレ行きたいなら、さっさ行け。一課も暇じゃないだろ? 早く出してしまえ。クソ洩らすぞ」
「下痢じゃありませんっ! 失礼します」
 
 蒼白な顔で吉田が課長に一礼すると、課長の後ろにいた俺を個室から引き摺りだした。
 俺を自分の横に引き寄せると凄い形相で、課長を睨めつけた。

「拓巳、少しお借りします!」
 
 言うなり、俺の手首を掴み大きな歩幅で歩き出した。

「オイッ、待てよ。吉田っ!」
「待てるか、いいから、来いっ」
「仕事が、あるだろっ!」
「ウルサイッ、黙れ!」
 
 怒っている。何故だか分からないが、吉田が怒っている。 
 この友人が声を荒げるのは珍しい。
 怒られている姿はよく目にするが、感情のまま、声を荒げている姿は珍しい。
 どこに連れて行かれるのかと思えば、地下の資材倉庫前だった。
 倉庫内ではなく前なのだ。
 倉庫内へは暗証番号が必要で、俺たち営業にはその番号が知らされていない。
 当然倉庫内には入れない。
 だが、この倉庫前は密会やサボリ場所として、俺たち営業の間では、密かに人気のスポットなのだ。

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